昭和五十年十月二中日          御理解 第六十七節「何事も釘着けではない、信心を各自にしておらねば永う続かぬ」



永う続くと言うこと、しかもそれが永う続くだけでなくて、踏み広げて通ると言う行き方 を私は願わなければならんと思う、信心の教導と言うかこれは教導をする者、教導を受ける者が相待って行く人、素晴らしい事ですけれども、仲仲いけません言うなら師匠が願っておるような信心を、例えば弟子達が師匠の心になって、稽古をして行くなら間違いなしに上達するけれども、と言うて師匠が何の事でも同じでしょうけれども、私の信心はこうだと自分の信心を強要したり、押し付けたりしたんでは永う続かんのです。
私の信心はこうだとだからそれぞれ、私のような信心をしなければいけない、いわば形の上だけでもそんな事ではいけない、それはめいめい良い師匠であるならその良い師匠を見習って行って、出来んなりにもそれを見習いながら、稽古を進めて行く訳ですけれども、そこにこの師匠である側のまあ例えて言うならば、師匠とか弟子だでなくて、皆さんの家庭においてもよい子供達の信心が、あああってくれれば良いけれどこうあってくれれば良いと言う願いは持っておるけれども、仲仲親の思いに添うてくれる子供はそうザラにはいない。
けれども曲がりなりにも親の信心を受け継ごうとしておる、またはたまには参ってくれると言うようなだけで良いと言う事ではない、けれどもそれを一々こうでなからなければならんと、言うたんでは信心は永う続かんと言うのです、もうそげん窮屈に言うならもうかえって、信心をくずしてしまう、先日から北野の上野先生の里です、?のおかげを頂いております、?のおかげを頂いておる、何回か二三回欠けておる、そりゃ勿体ないようなおかげを頂いておる、やっぱり上野先生の信心でしかも兄弟達が皆おかげを受けておるのです、本当たまがるようなおかげを頂いておるんです。
ですから上野先生は性格的にはもう本当にきちっといかねばいけない性分ですから、一回二回迄は辛抱しとったけれども、もう三回も来ないとどうした事か、これだけのおかげを受けとってから、神様ごとに御無礼してはいけんじゃないかと、大祭もきよるけん大祭には出て来るじゃろうごたる風に、思うとったところが昨日あちらのその家内の桂子さんがお礼に出て来てから言うです、この次ぎから行こうと思いよるところえ姉さんから電話が掛かって来たと言う、だから上野先生としては易うまあ優しう言ったつもりなんだろうけれども、相手にはカッと来たわけです。
だからあげなこつ言うなら俺はもういかん、と言うごとなってしまって私はそう言うところだと思うですね、信心は釘着けではないからそれを例えばこうあらなければいけん、こうならなければいけんと言う風に、各自めいめいに信心はしなければならないと言うのです、だからそこに祈りはいります、例えば私の方の四人の息子達の事を言うても良いです もう一人一人の信心の一つの個性を持っております。
神様が言って下さるように確かに士農工商的なものを持っておりますね、長男が士でしょうね普通高校を出ておりますからから、二番目が農業高校を出ておりますから、農でしょうね、三番目がこりゃ病気のため中退しましたけども自分の願いで工校へ行っとります、それから四番目が商業高校へ行っとります。
もうまるきりですねもう私はこの事を頂いた時に本当にこうでなからにゃいけん、ああでなからにやいけんと思うてですね、しかもだから士農工商といえばまあ世界中の人間を、この士農工商と言えば集めてしまう事が出来るち思います、どれにか入るわけです世界中の人間がねそのどれにか入るわけです、だから世界中の総氏子の布教とか教導とかにあたらして貰うとです、誰誰は士で行けここは工が行けと言うようにですね、そう人口に当たることが出来ると言う訳です。
神様の本当の深い御深慮、思召しと言うものに皆が卒業したその時点でその事を頂いたから、本当に金光様の信心で農業学校でん何でん、商業学校でん何でんと言ったり思うたりしたことは、あったですけれども結局は神様のそう言う深い御深慮あっての事でありますから、もう言うならば百姓と商売人と違うように、それぞれに違った行き方を致します、親としてはそれなりに私の一つの型と言うか私の思う通りに、動いてくれればああそれこそ親の痒いところに手の届くような信心をしてくれれば、これが一番なんですけれども、それを例えばどうとやこう言っておったんではです、言った時は出来るかも知れませんけれども、それは永う続かんと言うのです。
だから神様のそれぞれそれなりの、お育てを頂かねばならないそこに例えばなら、教える者としてはもう本当に寛大でなからねばなりません、豊かにまあそう言う場合にです例えば今日なんかはもう五時の御祈念が二十分も切れとる、私が私の朝の御祈念は命、以上に大事に思うとるです、なら私達の子供達が親がそう言う大事にしとるもんだから、大事にしょうと思うたら出来んことは一つもないけれど、それが仲仲出来ません。
だからと言うてお前のごとお届けに十分遅れたり二十分おくれるごたるならば、もう次ぎの二番目のとに御祈念をさせるぞと、言うたらそこで挫折するでしょう、だからそれを堪えると言うか辛抱すると言うか抱擁して行く、と言う事は親も並み大抵な、いやそれこそ大きくならなければ出来ないと言うことです、まああんまりろくそうな事ですけど、私の子供達は言うならばもう本人達任せの信心をさせております。
そこでです、私は思うのですけれどもまた有難いと思うですけど、なら子供達が本当につまらないかと言うとです、もうそれこそ士農工商のですこの人でなからねばならんと言う事が、これは親の思うとる通りに必ず出ておると思うです、親の思い親の願いとしてそれぞれのマル少関係は二番目の光昭がおらなければ、どうにもしかもそれを思う以上願う以上に、そのことの御用に当たっておられます。
勝彦達もそうですまあ上の私の代わりに、私の代わりに外部に当たってくれるわけですけど、とても私か外で回ってゆくことでないように、これは神様がお使いまわしを下さるのです、だからそうして神様がお使い下さるもうそう言う事が有難いと同時にです、釘着けでないですから、本人がああ本当に親の一番大事にしてるものは朝の時間だと、朝の一時の時間を大切にするのだからこれは一つ本気で、その気にならしてもらわにゃと言う気が起こったときかおかげである、神様が十二分にお使い下さるだけでなくて言うならば、親の信心も言うなら見習う事でもあるのですから、そう言うおかげになるためには、そこが辛抱です私としてはなぜかと、釘着けではないのだから。
親の願い、親の思うようにサッとこう神様がお使いまわし下さるのだから、私が一口私の思うようにならじゃったからと言うて、取っておさえるように言って聞かせたら、すればそれは聞くかも知れませんけれども、それでは永う続かんと言うのです。
そこでね皆さんの場合でもそうです、それを一つ本当に神様にお縋りをしお願いをして、自分の思うようにならないけれども、神様にお任せした行き方を身に付けて行くならです、もうこれは親の思うとった以上に子供がおかげを受けるようになるです、ああもう目にあまるような事を言ったり、目に余るような事をしたりするような時、そこをです一々ガタガタ言うておつたんで、永う続かんです。
釘着けではないのですからね永う続かせて頂いとる内に、神様が適当に言うなら親の願い師匠の思い以上に、神様がお育て下さるしかもそれには、其々の言うなら士農工商的なです、もうでなからねばできない働きをその子供達の上にでも、働きを起こして下さるようにです、これはだから此処で私と子供達の事を言うと、なら私自身もその都度、都度にです愈々豊かな心、大きな心、太陽とお天とう様とね、風のお話があります、旅人のいうなら外套を脱がせようと、どちらが脱がせきるかと言う訳です、もう風は物凄い風を送って 旅人の外套を剥ごうとしましたけれども旅人は益々外套を強くはおった、と言うのです そこで太陽は暖かい言うならば光りを送った、そしたら自ずとその外套を旅人は脱いだと言うのです。
例えば上野先生が弟のところに電話をかけた、もう本当に兄弟思いであり弟思いですからおかげ落としちゃならんと言う思いが、つい電話掛ける事にもなったんです、だから昨日桂子さんが来たから上野先生に言う相です、昨日はあちらはおくんちでしたもんだから、お姉さん今日のおくんちにゃ来てくれなさんなと言った、そうです、主人がそげな風でカチッと来とうから、それを昨日は言いに来とったね、たから本当に折角の弟が可愛い、弟がおかげを頂く事のために言うとるとでしょうが、なら私が子供達に、子供達がこげなこっちゃでけん、こげなこっちゃおかげを頂ききらんと思うから、ならそこに言はう様な心も起こしとるけれども、それを言ったんでは反対のことしかならない、それは風を起こして外套を脱ぐようなことにしかならないと言う事、それよりもやはり大きな豊かな言うならば、太陽が暖かい明かりを送る様に行き方を身につけて行かねばねそう言うところがです 私は今日は信心は各自にしておらねばと言う事になると思います。
これは皆さん本当に一つ、一家勢を揃えて信心をしたいだから一生懸命信心しとるものが 信心のないものやら信心に反対する者やらの事を思うからそれこそ強引に引っ張ってきたい様な気持ちでもするけれども、そう言う衝動にかられる様なこともあるけれども、サアそこをこちらがその都度、都度に豊かになって行く、大きくなって行く神様にお縋りして行くと言う、行き方を身につけて御覧なさい必ずおかげをいただくです。
その思い願いが親子であれば尚更、愈々強いのですから必ずおかげを受けるですねそれを例えばあれどんが、あげなこっちゃおかげ頂き切らんと言う様な思いをすて、言うなら豊かな暖かい心を持って、祈って行くと言う事になればおかげになるです。これは私共の子供達の事を私が育てると言うよりも、私の信心を見なろうて呉れなければと思うです、これはここの弟子達でも同じ様な事が言えるのです。
けれども一々それは私流儀じゃないばい、そげなこっちゃいかんよと、言いよったんではああそうですかと、直すかも知れませんけれどもそれでは永う続かんと言うのです、自分がその気になったとき神様がおかげを下さる、けどもそれがね例えばそれが一つの証しとでも申しましょうか、大坪お前が一々子供達の上にガタガタ言わんでもよかろうがと、時間かけて行けばちゃんとおかげを頂くぞと、その証拠にはです、なら彼たちがでなからねばならないときには、その子でなからねばならない御用をもうそれこそ、私が思っておる以上、痒いところに手の届くと言うのはこの事だろうかと言う様に御用に当たってくれると言う事実なんです、ですから神様にお縋りしときゃ、段々年を取って行く内にです、先日から申しましたことをそこに控えております、二三日前の御理解です。
人間生きて行くのに現状維持はあり得ない、釘着けではないと言う事です、生きて行くと言う事とは変化のし通しである、そこに前向きの信心が必要であると言うのです。
そこでならば教えを信心を教導して行くもの、師匠と弟子との心かけと言うものが、ここに置かれる間違いないのです、そこに前向きの信心が必要であると言うのです、いつでもこれではいけないと、いつも前向きの姿勢を取っておくならばです、でけませんでしょうけれども、一歩宛てでもそれに近ずいて行こうと言う精進がある。
釘着けではないからここに釘着けであったのがです、言うならば前向きの姿勢がないとです、ストーッと下に落としてしまう、落ちてしまう、現状維持と言う事は絶対ない、いや釘着けではない、これはもう何年でもそうである、ですからその時点を大事にしてゆかなければならないと言う心、言うならば前向きの姿勢を私共が作っとかなければならない、昨日夜の御祈念の後に幹三郎が当番でしたから、御祈念の後に皆さんにお話しを聞いて貰ってました、それを改まると言う事、その事に、この人の話しをいつも聞きながら本当に教えられる様な事があるのですけれども、改まると言う事は大変難しい事だと、けれども気と心をそこに使っておらなければです。
愈々いけない難しい事だとけれども、それかと言うて改まる事もできないけれども、やはりいつもそこに心を使っておると言う意味の事を自分の体験から出て来たお話だった、と思うですけれども致しております、そう言う風にして前向きの姿勢ではあると言う事です、出来ん出来んけどこう言う事じゃいけないと思うてはおると言う事です、ですから何かの機会にそれが出来るようなおかげになって来ると言う事であります。
私は今日はめいめい信心はしておらなければいけない、永う続かなければいけないためにも、前向きの姿勢を取っとかにゃいかん、こんどは教導する場合、それを上野先生を例にとりました様に、ならなら弟の信心の教導と言う事をです。
お取り次ぎを頂いて弟がこんな話しですから、出てまいりますようにと言うとったらその次ぎの月次祭には出て来たでしょう、ところがそれを言うたばっかりに、あげな事を姉さんが言ったけんで、俺は行かんと言うて人間仲仲その天の邪鬼をお互いもっとりますから 右ちゃ左と言ったものがお互いあるのですから、だからここんところをより豊かな寛大な、おかげを頂いてゆかねばならないところにです、教導をしてゆく者の信心が愈々豊かに大きうなって行く稽古を教導して行く者の上にも、おかげを下さってあると言う事なんです、何事も釘着けではない信心を各自にしておらぬと、永う続かぬ只永う続くだけであってはならない、永う続いてそれを一歩宛てでも踏み広げて行くところに、ねばならんと言う願いがお互いなからねばならん、それを今日は私は前向きの信心と言う姿勢を絶えず、とっておかねばならんと言う事を聞いて頂きましたですね。どうぞ。